内田篤人ワールド
内田篤人さんの日本代表キャップ数は74。そのうち70試合以上を取材しました。
2008年から2015年までたくさんの記事を書かせてもらいました!
ミックスゾーンではざっくばらんな語りが魅力で、取材陣の人気者。
ピッチでは最初から先輩にかわいがられていましたし、選手同士から一目置かれていました。
吉田麻也さんのブログを成長させたのは間違いなくウッチーでしょう!
鹿島アントラーズでは、最初に入ったときの先輩に内田潤さんがいたので「アツト」の呼び名。鹿島戦も何回も取材させてもらいました。
自分で書いた主な記事をまとめてみました。
朱に交わらないメンタルを確立していった時期だと思います。
ネイマールとのマッチアップに関しては、内田篤人さん自身、楽しんでいる印象でした。フィジカルでねじ伏せようという守備をされることの多いネイマールですが、内田さんみたいにクレバーにマッチアップされるのはあまり得意じゃなさそう。
酒井宏樹さんもクレバー型対応なので、ネイマールはイヤなんだろうな。
飾らない。身構えない。5,6年先を見ていた10代の頃の内田篤人さん。
その2カ月後、こうやってこぼしていた。
北京五輪が終わると、日本代表でも主力になっていった内田篤人さん。
オランダ遠征ででロッベンとマッチアップ。自信をつかんだようでした。
Jリーグ、ACL、代表と過酷なスケジュールになっていった2009年春頃から、内田篤人さんは試合中にときおり「嘔吐」するようになっていきます。
細いからだを酷使して、ぎりぎりまで自分を追い込み、ケガや疲労と戦いながら日の丸を背負う重責を担っていた。
少しとんで2013年。吉田麻也さんと絡むことがどんどん増えていった。麻也さんがウッチーをブログに登場させてはアクセス数を伸ばしていった時期です笑
2013年コンフェデレーションズカップ@ブラジル。リアリストとしての一面を色濃く見せるようになっていった。
そうか、ウッチーはCLでも代表でもアザールとマッチアップしていたんだ。。。
ロシアワールドカップに、リアリストのウッチーがいたら、どうだっただろう。
ブラジルワールドカップから帰ってきてのインタビュー。
一時、代表引退をほのめかしていた。後から知ったことですが、右膝(膝蓋腱)の痛みが限界を超えていた。
全力を出し切れたブラジルワールドカップ。でも惨敗した。
この取材の時、内田篤人さんは本当に優しい人だなとしみじみ思ったものです。誰かが質問したわけじゃないんですよ。彼が自ら切り出したのです。
この頃になると、膝の痛みは半端なかったはずです。でも、我々にそんなそぶりはまったく見せなかった。
これが、最後の代表戦でした。このとき、そうなると思った人が一人でもいたか。